ジェームズは電話を切ると、咥えていたタバコを灰皿に押し付け、エンジンキーを回した。クラッチを浅く踏み、軽くアクセルを踏み込んで、ヴィクターが待つ警察署へ車を走らせる。雨は時間を経るにつれて激しさを増し、雨粒が車体を容赦なく打ち付けた。直近の車検で交換したワイパーも、この豪雨には役に立たず、視界は常にぼやけている。

 ジェームズは警察署の前に車を止めると、素早くダッシュボードを開け、拳銃を掴んだ。弾数を確認し、ホルダーにおさめると、車のドアを開けて辺りを見回す。不審な人物がいないことを確認し、拳銃から手を離すと、傘を差すことなく急いで入口へ駆け込んだ。

 窓口を見渡したが誰もおらず、雨で冷えきった手でベルを鳴らす。奥から出てきた職員はジェームズの姿を見とめると、驚いた表情を浮かべて駆け寄ってきた。見慣れない顔なので、恐らく新任の警察官だろう。

「お待たせしてすみません。事件ですか?」

「いや、違うんだ。旧友に用があってね。ヴィクター刑事はどこにいる?」

「この通路を真っ直ぐ進んだ、一番奥のオフィスです」

「そうか、ありがとう。昔と変わらんね」

 ジェームズは指示された通りに通路を進み、ヴィクターのオフィスへ向かった。扉を二回ノックし、返事が聞こえると同時にドアノブを回す。

「ジェームズ、よく来てくれた。すっかり濡れ鼠だな。近年は雨量が増えて、まったく気が滅入っちまうよ」

「俺の命を狙っているヤツがいるんだ。このくらいどうってことないさ。それで?そいつは一体どこをほっつき歩いているんだ」

 ジェームズはヴィクターが投げ渡したタオルをキャッチし、濡れた体を乱暴に拭った。

「まずは、そいつの身元からだ。そいつは自分を フエゴ と呼んでいるらしいが、本名はイグナシオ・ロドリゲス。年齢は十六歳。お前も知っているだろうが、彼は…」

「前日に外科手術を受けていた」

「そうだ。右足の複雑骨折を治療するためにな。当時はあの事件で亡くなったと考えられていた。なにせ、他の入院患者および勤務していた医者は全員死亡。死体は身元が分からない状態で、未だに連絡がつかない。そう考えるのが妥当だろう?」

「なぜ、あの火災の被害者だと?」

「そいつが自分で白状したのさ。本名、年齢なんかも全部。捜査官だったお前の名前もついでにね。理由は分からないが、お前に会いたがっている。それだけが事実だ」

 ヴィクターはホワイトボードの前に立ち、マジックペンのキャップを外した。ボードに並んだ フエゴ の文字をじっと見つめ、横に大きく疑問符を書く。

「そいつが言っている父親《パドレ》というのは?」

「恐らくフエゴを誘拐した男のことだろう。あの時、お前が見たアレが本当の話ならな」

「本人に聞くのが一番だな」

ジェームズはタオルをデスクに置くと、ヴィクターの隣に立ち、ホワイトボードへ目を向けた。傷害事件が多発しているのは、スラム街の東側。まるで蟻地獄へ自ら足を踏み入れる蟻になったような気分だった。

「俺の部下を護衛に付けてくれ。元刑事とはいえ、お前は一般人だ」

「いらねえよ、俺一人で十分だ」

俺のボス の命令だ。あの人に逆らえば、俺の首が飛んじまうよ」

 ジェームズが納得いかない表情を浮かべると、ふいに肩を叩かれた。後ろを振り向くと、そこには顔を知らない若い青年が立っている。万年人手不足だからか、新人ばかりのようだ。

「イーサンです。よろしくお願いします、ジェームズさん」

「よろしく。運転を頼むよ、地獄まで」