イーサンはジェームズから車のキーを受け取ると、右側のサイドドアに差し込み、静かに開けた。ジェームズは軽く頷いて礼を言い、車内に滑り込む。ドリンクホルダーに手を突っ込み、煙草の箱らしきものを探り当て、指で淵をなぞりながら一本だけ取り出す。ついでにライターも拾い上げ、火をつけて深く吸い込んだ。フエゴが待ち伏せていたら味わえなかったであろう煙を愛おしそうにゆっくりと味わう。この一服こそが、ジェームズにとって生を実感するのに最高の方法だった。

 イーサンは左側に回って傘を閉じ、運転席に乗り込んだ。キーを差し込んで、すぐにエンジンをかける。煙草のけむりに慣れていないのか、しかめ面を隠そうとして顔をこわばらせた。

「ごめんな。けむり、苦手だろう」

「いえ、お構いなく。それより、警察車両を使わなくてもよかったのですか?」

「自分の方から居場所を知らせちまうからな。こっちの方がいい」

「なるほど、了解しました。それでは目的地へ向かいますね」

 イーサンは滑らかに車を発進させると、大通りを抜けてスラムへ向かった。車内は静寂につつまれ、シャワーのように滑らかに打ち付ける雨音だけが、途切れることなく響いている。ジェームズはヴィクターから貸与された防弾チョッキを素早く身につけ、お守り代わりだと冗談半分で渡された雨傘を後部座席に放り込んだ。暇つぶしにラジオをチューニングしたが、雨の影響かスピーカーから流れるのはザラついた雑音ばかりだった。

 ジェームズは、イーサンに話しかけることにした。

「運転上手いね。マニュアルよく乗ってるの?」

「そうですね、父の車がマニュアルで。プライベートでよく乗っています」

「いいね。親父さん良い趣味してるよ」

「ありがとうございます。実は僕の父も警察官でして。ジェームズさんとは違うチームでしたけど、あの人はすごく優秀な方だって褒めてましたよ」

「そりゃ光栄だ。親父さんは今でも現役?」

「現役です。結構いい歳ですけど、表彰もされていて。とても尊敬しています」

「いい話だね」

 ジェームズは何となく車窓の外に目をやった。地下トンネルへ入ると、突風に押し流された雨粒が乱反射し、ぼんやりと彼の顔を照らす。その光景が、なぜかすごく眩しく思えた。

「ジェームズさんはなぜ警察を辞めたのですか?署長から一番期待されていたと、ヴィクター刑事から伺いました」

「競争とか縄張りとか、体裁を取り繕うのに疲れたんだよ」

「そうでしたか…今は何を?」

「探偵だよ。浮気調査やったり、気軽な正義の味方をね」

「そうですか。正直、なんだか勿体ない気がします」

「そのうち、君も分かるよ。大人は体だけデカくなった子供に過ぎないってね」

 二人を乗せたセダンは、さらに真っ直ぐ進んでいく。スラムが近づくにつれ、通りに並ぶ店はますます妖しげな光を帯び始めた。道端に散乱するゴミ。点滅するネオンライト。遠くから銃声。叫び。叫び。叫び。

 信号は赤く点灯していたが、イーサンは無視してアクセルを踏み込んだ。この場所に長く停車するのは、危険だと判断したからだろう。ジェームズも周囲を注意深く見渡し、警戒をし始める。車内は再び静寂につつまれた。

 —―暫くして、静寂を破ったのはイーサンだった。

「ヴィクター刑事から十年前の事件について伺いました。ひとつだけ、質問していいですか?」

「ああ、もちろん」

 イーサンはジェームズをちらりと見ると、視線を前に戻し、話を続けた。

「ジェームズさんは、現場で 何を 見たのですか?」

 ジェームズはホルダーにぶら下げていた拳銃を掴み、ゆっくりと引き抜いた。

「炎の中に男が突っ立ってた。子供を脇に抱えて。俺を見て笑ってたよ」

「なんだか不気味ですね」

「声は聞こえなかったが、唇の動きでこう言っているのが分かった」

 ジェームズは銃のスライドを引き、フロントガラス越しに遠くを見つめた。

Shadow Brings Fear (影が恐怖を連れてくる)」

 地獄の門は開かれた。