スラム街に入った途端、ジェームズとイーサンは異様な空気を肌で感じ取った。窓の外に目をやるが、通りには人影ひとつ見当たらない。街灯の明かりは消え、まるで時が止まったように辺りは静寂に包まれていた。連日ニュース番組を騒がせていたこの街は、今や暗闇に沈むゴーストタウンと化していた。

 隣にいるイーサンの呼吸が浅く短くなるのを感じ、ジェームズは息を整えるように促した。イーサンは何度か深呼吸を試みるが、ハンドルを握る手は震えだし、時間を経るにつれて酷くなっていく。彼の震えに呼応するように、今度は車のエンジンが低く唸りだし、ジェームズは思わずため息をついた。スラム街のストリートが広く真っ直ぐ伸びていたことが、不幸中の幸いだった。

 フエゴがこの街に潜んでいるなら、既に自分達を察知しているはずだとジェームズは考えていた。わざわざこちらから出向いて接触する必要はない。相手が仕掛けてくるまで、ただ車を走らせ、静かに待つだけだった。

 十分後、新しい煙草に火をつけようと身を屈ませた時、ふと目の端に違和感を覚えた。勘を辿ってサイドミラーに目を向けると、車のぼんやりとした明かりがトランクの辺りを照らしているのが見えた。雨粒が鏡面に張り付いて姿が歪んでいるが、車体に溶け込んだ真っ黒な《《何か》》がそこにいる。目を凝らして観察していると、影の中からぼんやりと白い模様が浮き上がってきた。

 ソレ は、こちらを見て笑っていた。

「イーサン!スピードを上げろ!」

 イーサンは返事もせず、ギヤを素早く変えながら、アクセルを思いきり踏み込んだ。同時に車は甲高い悲鳴を上げ、暗闇の中を猛然と駆け抜ける。ジェームズは急いでサイドウィンドウを下げ、素早く銃を構えて二発撃った。銃口から放たれた弾丸は静寂を切り裂き、暗闇へと吸い込まれていく。ジェームズは急いで車内へ潜り込み、苦虫を嚙み潰したような顔をした。

「チクショウ!おちょくりやがって。イーサン、気をつけろ。奴は、フエゴは――」 「おっさん、こっちだ」

 ジェームズがイーサンの方を振り向いた瞬間、左側のサイドウィンドウが粉々に砕け散り、影から血に染まった手が伸びてきた。その手はイーサンの後頭部を力強く掴み、不気味な笑い声を上げながら、顔面をハンドルへ三度叩きつける。意識が混濁したイーサンの体をジェームズの方へ乱暴に倒し、今度はハンドルを握りしめた。器用に車の向きを変えながら、制御を失った車は廃れたスクラップ工場に侵入する。

「おい!イーサン起きろ!ブレーキを踏め!」

 イーサンは朦朧とする意識をかろうじて繋ぎとめると、後部座席から黒い傘を引き抜き、窓の外へ向かって突き刺した――ヴェクターから預かった傘だ。ハンドルから魔の手が離れ、何とか車の制御を取り戻す。ブレーキを勢いよく踏み込むと、車は火花を散らしながら砂利道を滑っていった。そして、勢いを殺さぬまま捨てられたタイヤの山へ突っ込んだ。      

 ――次に目を覚ました時、ジェームズは見知らぬ建物の中にいた。ぼんやりと視界をさまよわせると、ひび割れたコンクリートの壁や色褪せた落書きが目に映る。今にも崩れそうな壁の隙間を風がすり抜け、湿ったカビの匂いが鼻腔を刺した。恐らく、まだスラム街の中にいるのだろう。

 隣に目をやると、イーサンがうつ伏せで倒れていた。一瞬良くない考えが頭をよぎるが、胸がわずかに上下しているのを見て安堵する。上体を起こそうと身じろぎした瞬間、視界を鋭い光が横切った。光が向かった先には、小型のナイフが壁に深々と突き刺さっていた。

「よう、ジェームズ・ブラックウェル。感動の再会だな」

 ジェームズは口に溜まった血を地面に吐き捨て、暗闇に浮かぶ二つの目玉を鋭く睨みつけた。